名前を呼ばれているようで、私はなんとか瞼を開けた。

その場には私の顔を覗き込んでいた人がいた。

暗闇の中に、月明かりだけのその場所にその人の姿は光の中に浮いて見えた。

はぁ、と大きく息を吐き出すと、呼吸器みたいなものがつけられた口の周りが不愉快で、少し眉を寄せる。

身体が重くて、動きが鈍い自分にいらだつ。

「いいんだ…。いま、先生を、呼んで…くる、から…」

不自然な物言いに気がついて、よくよく彼を見つめてみた。

身体の大きな人だ。

見るからに屈強…強そうで、男らしいと感じるのに、なのにこの人は泣いていた。

静かに、だけど確かに。

身体を起こそうと入れていた力を、腕を動かすことに使うことにした。

ぽろぽろと泣いたその姿が、月の中でとても綺麗で…そうして胸が締め付けられたから。

腕を布団の中からなんとか出す。

うー、と呻いたのが判ったのか、彼がその手を取ってくれた。

私はそのまま彼の顔に手を伸ばした。

意図がわかったのか、大きな身体を丸めると暖かくて、そうして大きな手が私のそれを包み、彼自身の頬に当てた。

「かな、しい…の?」

頬を撫でたかったけれど、指が動かない。

「違う。…嬉しいんだ」

涙はまだこぼれていた。

ただ押し当てられた私の指に、彼の涙が零れ落ちる。

男の人が泣く様を見たことがなかったからかもしれないが…私はこんなきれいな涙は見たことがなかった。

「良かった…本当に…っ」

でも震えるその姿を見続けたくはなかったので、私は意識的に声を少し大きくする。

「な、か、ないで?」

口を動かすのもつらかったが、なんとか伝えたくて、そしてそう言うと…彼はまるで幼い子供のように頷いた。

そうして口の端を上げて、笑って見せてくれる。

それに安心して、私はそのまま、また瞼を落として、そして意識を闇に落とした。

…その彼の名前も何も知らないくせして、ただ安心して。

次に目覚めるときに、混乱の極みに陥ることなど判りもしないで。





5月6日


(1)



目を覚ますと私の目の中に飛び込んでくるのは、木目の天井。

瞬きを繰り返して、今、自分が置かれている現状を把握する。

退院してそう日は経っていない。

「んぅ…」

自分のものではないその声に、はたと気がついてそちらに顔を向けると、私の姪が私の傍で丸くなろうとしている猫のような仕草でいた。

あぁ、そういえば…昨日は怖い夢を見たからって一緒に眠ってしまったのだ。

身体を起こして、めくれてしまった布団をかけなおす。

少しむずがる彼女の額に、思わず唇を落として、そんな自分の行動に照れ笑いを思わず浮かべてしまった。

まだ、起きるには早いよ? 美雪ちゃん。

そう心の中で呟いてから、私はするりと白い浴衣を脱いだ。

家庭で洗える和服って偉大だ。

お値段は少々張るけれど。

用意しておいたブラや服を着ると、ズボンがゆるゆるになっているので慌ててベルトをした。

痩せた結果だけは嬉しいけれど、そのダイエット方法はいただけなかったな、なんて思う。

買っておいた半袖セーターとカーティガンにジーンズ。

流行り廃りはあるだろうけれど、この手にそれが適用するのかは解らない。

少なくとも三年以上前に買っておいた服が、虫に食われないでいてくれたことだけ良かったと思おう。

そっと身支度を整えて、着ていた物を片付けると風呂場の近くにある洗顔所に向かう。

お肌の手入れとお化粧は女の身だしなみなのだ。

そーっと音を立てないように気をつけて部屋を出ると、ゆっくりとした足取りで廊下を歩いた。

歩けるだけで嬉しい、なんて思う日が来るとは予想していなかった。

鏡の中の私が見返す。

私がはっきりと覚えている『私』よりも色白で、痩せたそれが見返してくる。

とりわけ美人でもなくて、とりわけ可愛いというわけでもない普通の容姿。

これ以上になることもないけれど、コレ以下にはしたくないのは乙女心というのだろうか。

病院にいる間に鬱陶しいぐらいに伸びた髪は、ばっさりと切って肩にかかるかかからないところで揺れている。

もう少し伸びたら、縛るのもいいかもしれない。

そう思いながらヘアブラシを通して、少しあった寝癖をなおして身奇麗にしてから、朝の挨拶と行ってきますを言う為に台所へと向かう。

包丁を握れるぐらいは回復してるから、そろそろお料理も出来るはずなんだけど病院側はあまりいい顔はしなかった。

まだまだ私が本調子ではない上に、安定していない体調だからだろう。

なので私以外がいまだに食事を作るのだけれど、その役割は今はとある人の役割になっている。

台所まで来ると、先に起きて朝食の準備をしてくれている人物の大きな背中が見えた。

「おはようございます」

身長2m、体重は100キロを超えた巨体。

私はその背中にそう声をかけた。

身長が160に行かない私は、彼を見上げるしか出来ない彼がくるりと振り返った。

「おはよう、

男性に呼び捨てにされることに慣れなかった私だが、もう一ヵ月半近くこうして呼ばれていたら嫌でもなれてしまう。

――嫌ではない、というのが正直なところで私の心を複雑にしてしまっているが。

「もう朝御飯の仕込みは終わるから、少し待っててくれ」

「え、いや。いいですよ。一人で…」

「そう言って昨日、すっころんで帰ってきただろう」

あきれたようなそんな言葉に私は何か言う前に、彼はつけていた業務用らしいエプロンをはずした。

確かにその通りなのでぐうの音もでない。

「あとは美雪ちゃんか鉄斎さんが起きてからでも充分間に合うから。行こうか」

「す…」

すみません、と言おうとして、この場合は言葉が違うだろうと私はそれを飲み込む。

「ありがとう、南雲さん。お世話かけます」

「世話ってほどじゃない。それに…」

それに? と聞き返すと彼…南雲慶一郎は小さく苦笑して「なんでもない」と言ってくれた。

朝一番に家の周囲を一周散歩、というのは病院側から出された課題の一つで、それが出来なければ通院の回数を増やさなくてはいけないのだ。

うう、もう病院食と点滴は勘弁してもらいたい。

「あったかくなりましたねぇ」

「そうだな」

なんて彼の声を聞きながら、私は一ヵ月半前に自分自身に起きたことを思い返していた。

私、は確かに死んだ。

交通事故に巻き込まれて、遠のく意識の向こう側で私を裏切った友人と恋人の声を聞きながら、永遠の眠りについたはず、なのだ。

けれど、私はこうして生きている。

として、ではなくて、容姿も年齢も周囲の友人達もそのままで…鬼塚として。

最初は自分に何が起こったのかまったく理解できていなかった。

目が覚めたら見知らぬ人達が「家族」として部屋にいたことも驚いた。

父親だという鉄斎という古めかしい名前にも彫りの深い鷹のように鋭い印象の顔立ちに銀色に近い白髪…にも覚えがなかった。

私の父はいかつい剣豪ではなくて普通のサラリーマンだったはずだし、今、私の隣を歩いている大きな男の人など、ついぞ見たことはなかったからだ。

「あなた、誰?」の言葉にその二人が大きく動揺したことに、私は逆に申し訳なく思ってしまうほどだった。

医者の問いかけにも として答えていたけれど、激変したのは私の姪っ子がきてからだ。

名前を名乗らず、じっと私を見つめていた彼女の目を見て、私は浮かび上がる言葉をそのまま口に上げていた。

「美雪ちゃん?」

美雪ちゃんは私に抱きついてきた。

それから私の頭の中には鬼塚の思い出が、記憶が浮かび上がって、私としての記憶と混ざり合っていくようになった。

私はこの世界の『鬼塚』として生きていたのだけれど、事故のショックで前世だが、あるいは平行世界の自分である『』の記憶が表面に出てきてしまったのだ、と結論付けた。

よく小説とかで別の人間に憑依してしまったというのがあるが、そうではない。

鬼塚としての記憶も、 としての記憶もどちらも自分のものだ、という意識が私にあるから。

ごちゃごちゃと小難しいけれど、とにかく今の私は鬼塚であり、 でもある女、なのだということで自分を落ち着かせた。

医者や看護婦、さらにはカウンセラーにもその手のことは話さなかった。

精神病院送りは勘弁して欲しいし、 でもあるけれど鬼塚 であるという自覚もあったから。

美雪ちゃんの名前を皮切りに、私は父・鉄斎や、私のことを親身に世話してくれるこの人の名前も思い出していたし…あ、勿論、それだけじゃないけれど。

という苗字は私の婚約者の苗字で、事故前に結婚寸前まで行っていたからそれでだろうという解釈をしてくれたときは内心、安心した。

私、鬼塚は三年ほど前に交通事故にあって、頭を強く打ってそのまま起きなくなってしまったのだそうだ。

三年間の昏睡状態は人間の機能をおかしくさせるはずなのだが、本当に私は奇跡的にその辺りに深刻的な異常は見当たらないという診断結果。

私は目が覚めてから退院するまでのこの一ヵ月半、記憶の混ざり合いとリハビリに勤しみ、なんとか自力で動けるまでに回復した。



そして驚いたのはこの世界…私、鬼塚が生きている世界はとして、小説や漫画でその情報を知っているフィクションの世界だったということ。



勿論、そのことは誰にも内緒だ。

病院側は「少なくてもあと半年は入院して経過を見たほうがいい」と言ってくれたが、父と姪が「家に戻れば記憶も安定するから」と言って家に連れて帰ってきてくれたのが、ついこの間のこと。

「っ」

「っと」

転びそうになった私を分厚い胸板が支えてくれる。

大きな手が私を抱きかかえて、顔を覗き込まれた。

「ありがとう」

「考え事してたのか?」

「えぇ」

ものすごく優しい顔で微笑まれて、私は少し照れくさくなって笑って誤魔化す。

彼の名前は南雲慶一郎。

記憶の融合で知った、鬼塚のお兄ちゃんのような存在で、本当は初恋相手だったのではないかな? とも思う。

ただ彼が姉を好きなのだと理解して、諦めた人で…そしてあの月明かりの下の中、私の手をとって涙していた男の人。

彼を見上げていると、ふいに起こったフラッシュバックに立ちくらみする。

…っ?!」

「っ、だいじょう、ぶ」

前々から、何か思い出すと立ちくらみか貧血の症状を起こすことを知らせてあったので彼はそんなに慌てなかった。

そのまま抱きしめる格好で支えてくれる。

記憶と記憶が交じり合う、この感覚は、私にはかなりきつい。

…しかも思い出したのが鬼塚の婚約者のことだった。

の恋人そっくりな彼。

彼との関係はすでに今現在は終わってしまっている。

鬼塚の気持ちを三年前に置き去りにして、現在、彼は一児のパパとして家庭を築いているのだそうだ。

その事実にぎゅううっと胸が締め付けられた。

あぁ、ここで…彼と私はこうして同じようなことを随分前にしていたのだ。

シチュエーションが記憶を蘇らせたのかもしれない。

涙がこぼれそうになるのを堪えた。

南雲さんに心配かけたくない。

落ち着いてきたので、「ありがとうございました」と礼を言って微笑むのだが彼は顔をしかめたままだった。

「南雲さん?」

「……顔色が悪いから今日は戻ったほうがいいんじゃないか?」

「まだ平気ですから、行きましょう」

支えてもらえるのは嬉しいし、心配してくれるのはありがたいけれど…こう抱きとめてもらうのは年頃の女としては恥かしい。

…嫌いじゃなくて、むしろこの人はとてもいい人だ。

初恋相手だったから、という気持ちもなくもない。

この人の記憶も多少なりとも思い出しつつあるけれど「年上なので」という理由からの敬語というか丁寧語に加え、苗字呼びにあまりいい気持ちでないというのも知ってる。

けれど私には面と向かって不満を出さない。

正直、男性として好きになりそうで怖い。

そうでなくても、今の私の精神状態は揺れやすいから。

こうして優しくされるとぐらっときてしまうのだ。

片手でもう抱きしめなくていいと、少し御腹の辺りを押して抵抗すると身体を少し離してくれる。

それでも腰の辺りをまだ支えていて…。

困る、うん。

これ傍でみたら恋人同士に思われないか心配だ。

フィクションの世界としての知識だが…彼、南雲慶一郎は結婚しているというのがある。

強制結婚だが、きちんとその小説の中で彼はその一人の女性を愛した上で結婚したのだ。

そんな先が見えている恋愛はしたくない。

「…ここで転んだの、思い出したのか?」

私はただ苦笑いと頷きだけでそれに答えた。

苦くても『笑み』になっていればいい。

涙を浮かべそうになったのを、瞬き数回でなんとか誤魔化しながらまた歩く。

南雲さんは聡いというか…すぐに私の変調に気がついてしまう。

そう、心配をかけてしまうのでそれが心苦しい。

そして倒れたら姫抱きするのは勘弁して欲しい。

なんの羞恥プレイだとか思ったのはここだけの話。

少し話をしながら、ゆったりと家の周囲を一周すると美雪ちゃんが玄関に待っていた。

「ただいま、美雪ちゃん」

「おかえりなさい、叔母様」

目上の家族を様付けするのは姉さん譲りなのだと、思い出しつつ手を広げるとそのまま美雪ちゃんが抱きついてくる。

小説で無表情で無口な女の子である彼女は、私に対して少しだけ心を開いてくれているようでこうしたスキンシップを欠かさない。

「ただいま、美雪ちゃん」

「おかえりなさい、慶一郎さん」

私の胸に顔をうずめている美雪ちゃんが、抱きしめたままそう返しているのを聞きながら顔を上げるとお父さんが立っていた。

「ただいま、お父さん」

私の言葉に鬼塚鉄斎は無表情のまま「うむ」と頷いて「慶一郎、飯だ」と命令する。

「はい」と答える彼と、そして美雪ちゃんと一緒に家の中に入った。

私の一日はこうして始まる。



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妄想企画を書き直し修正。ラブ度高めと原作をきついながらも読み返して作りました。
ただ15・16巻ぐらいしかきちんと読んでないので間の話で出てきたことの有る設定を拾えていないやもしれません。

原作開始時 南雲さん29歳なので…主人公さんは26歳程。
連休前に家に戻ってきたよ、ということでよろしく御願いします。

この時点での原作との時間関係の相違。
慶一郎の帰国は3月。
3月〜5月の間に、美雪ちゃんとの和解(?)イベントは済ませ済み。
4月中旬辺りで美雪ちゃん、不登校に。

実際は帰国5月。直後和解(?)イベント5月に不登校です。


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